こんにちは

If You See Her, Say Hello Bob Dylan

テレビ局やラジオ局で働く人々の挨拶が、昼夜を問わず「おはようございます」であるのは、有名な話だけれど、ホテルでもそうだ。
僕が皿洗いのアルバイトをしていたホテルでの挨拶も24時間「おはようございます」だった。卒業後は学生時代からアルバイトをしていたイベント企画会社に就職した。ここでのあいさつもやはり「おはようございます」だった。
学生時代からこの会社を退職するまでのあいだ十年以上、僕は「おはようございます」を使ったことになる。

退職後、僕は秋葉原の日本語学校につとめた。はじめの3ヶ月はパートタイムだった。
外国からの語学研修生を受け入れている日本語学校では、たいてい午前の授業と午後の授業があって、それぞれ45分以上の授業を4コマずつおこなうことになっている。この学校では、その、午前か午後の4コマを一人の教員が担当していた。
木曜の午後の授業を担当することになった僕は、初出勤の日 教員室の扉をノックしようとしてふと手をとめた。

なんと挨拶すればいいのか、わからなかったのだ。以前の職場では挨拶はすべて「おはようございます」でよかった。ここはそうじゃないだろう。時刻は正午を少し過ぎていた。初日から「おつかれさまです」では なれなれしいような気がした。

僕は扉をノックすると、少し大きいめの声で「失礼します」と言って、きちんと頭を下げた。
「あら、こんにちは。早いのね」。
聞きおぼえのある,高い声は、僕を採用してくれた女の校長先生のものだった。

それまで属していた業界の「おはようございます」とくらべ、校長の「こんにちは」にはずいぶんと気の抜けた印象を受けた。
「ですます(ございます)」がつかえないのは「こんにちは」の弱いところで、どうしても緊張感にかける。男子学生が先輩に「ちーす」なんて言う、あれはつまり「こんにちはです」と言っているわけで、無意識のうちに物足りなさを感じてのことであろう。

それではこの「です・ます」をつかえない「こんにちは」が、親しいあいだがらで、つかいやすいかと言うと、そうでもない。「こんにちは」は家族間や友人間ではつかいにくい、よそよそしい挨拶なのだ。家族はもちろん、友人とのあいだでもむずかしい。友達に会うのに、午前なら「おはよう」でいい。昼すぎならどうだろう。「こんにちは」とは言わないんじゃないか。さほど親しくない人なら「こんにちは」もアリなのは、「こんにちは」がそれだけ儀礼的ということで、よそよそしいがゆえに初対面には強い。そして二度、三度会い、たがいに親近感をもちはじめると途端につかえなくなってしまう。
そこへいくと「おはよう」は親しさや距離感を問わずつかわれ、夫婦・家族のあいだでもまったく違和感をもたない。
また「こんにち(今日)は」と「こんばん(今晩)は」が漢語由来であることを考えると、このよそよそしさもうなづける。形式的・儀礼的というのは漢語由来の語彙の特徴で、キモチがのらないどころか、むしろそれを排除するはたらきをもつわけだから無理もない。

日本語学校のあいさつのように、「こんにちは」が、便宜上挨拶として採用されることは、めずらしいことではない。「こんにちは」にかわるものがないので、とりあえずというか、まあやむをえずそういうことにしておくのだ。
小中高等学校で、廊下で先生とすれちがったときにする「こんにちは」なんかもそれで、これはそういうことにしましょという取り決めのようなものがあって成り立っているに過ぎない。
会社などへ出入りする業者さんの「こんにちは」も、そうだ。訪問するたびに「ごめんください」・「恐れ入ります」というのもおおげさなので、「こんにちは」におちついたのだろう。「こんにちは」のよそよそしさが訪問者の唐突な侵入にふさわしくもある。

僕は「こんにちは」がすきじゃない。だから教室へ入ってくる学生とかわす挨拶に、正午ぎりぎりまで「おはようございます」をつかう。正午を過ぎて「おはよう」というと、不思議そうな顔をして時計を見る者もいるのでしかたなく。「こんにちは」に切り替える。
もっとひどいのは「こんばんは」だ。一日の終わりに近所の顔見知りと出くわし、あわてて口にする、この挨拶は夕暮れのようにぼんやりとしていて、これからなにかをはじめようとする場にふさわしくない。

「おはようございます」が、放送局などといった、ある種の職場で、基本の挨拶とされるのは、歌舞伎のしきたりから来てるとか、24時間働いているからとか、たしかにそういう理由もあるのかもしれないが、こういう、日本語の「こんにちは」の特性によるところも大きいんじゃないか。

大阪教育大学キャンパスことば(24)
挨拶語「こんにちは」に異変あり? ─ 国語教育講座 井上 博文先生

読売新聞 YOMIURI ONLINE 鈴木美潮のdonna 職場の挨拶、困ってませんか?
(2010年10月22日 読売新聞)