迷子

 眺めのいいカフェの店先に腰かけ、コーヒーを注文した。こうやって 見えるところにバイクを停めて、遠くから眺めていると、まるでつながれた犬のように見えてくる。韓国の二輪好きの人は「愛馬」なんて馬に喩えるが、僕のはスクーターだから犬がちょうどいい。

 以前うちで飼っていた犬は、センターで譲り受けた。迷い犬を「保護」したとの、係りのかたの説明を受けた僕は、犬を「まいご」となづけ、家へ連れて帰った。
 犬を運動させるときはよく海へ行った。海岸へ行って人気がないと放してやる。犬は一瞬駆け出すがすぐにこちらを振りかえる。遊びに行くのもくちらちらとこちらを窺いながらで、そう遠くへ行こうとはしなかった。僕が遊泳禁止の看板の後ろに身を隠すと、犬はもと来た方向へダーっと全力で駆け出した。置いていかれたと思ったのだ。遠くまでゆくと立ち止まり、辺りをキョロキョロしている。手をあげて大声で呼びもどすと、踵を返してすごい勢いでこちらへ向かって駆けてきて、しゃがみこんだ僕に体当たりをかませる。犬は尻餅をついた僕の顔に顔を近づけると何か言いたそうにハアハアと舌を出している。その、はげしい狼狽えぶりを見て、この犬は捨てられたことがあるにちがいないと思った。

 ふざけて、何度か、犬を「すてご」と呼んだことがある。「すてご」。何度読んでも「すてご」は捨て子という抽象名詞のままで「名前」にならない。「まいご」と口にして犬の頭をなでたときとはずいぶん具合がことなる。「すてご。すてご」。犬もキョトンとしている。
 そのアクセントに理由があるんじゃないかと思った。「まいご」は語頭にアクセントを置いて発音される。ようこ、ひろこ、けいこ、れいこ。「もうすぐお母さん、来るからね」という確固たる希望のひびき。迷子の流す涙は愛と信頼に裏打ちされ、宝石のようにかがやく。
 「まいご」。はじめて呼んだときから「まいご」は「まいご」だった。
 「すてご」というひびきは対象をつきはなす。すてご、みなしご、かぎっこ。一方的に関係を切られる、抽象名詞は個人をみとめない。親の愛も情も知らぬ捨て子は、絶望という言葉さえしらないのだ。

 まいごは性格のいい犬で僕は玄関でよくいっしょに寝た。僕がソウルに来てからは、まいごの散歩は父と母の仕事になり、よく愚痴を聞かされたが、両親ともまんざらいやそうでもなかった。まいごは水が好きで泳ぐのが上手だった。海へボールを放ると泳いでとって来た。周囲に人だかりが出来て、拍手喝采を浴びたこともある。ボールを咥え海からあがってくるまいごは、ぴょこぴょことどこか得意そうでおかしかった。
 犬がなくなったのは、僕がソウルへ来てまもなくのことだ。12歳を過ぎていたので、老衰と言っていいと思う。文字通り「息をひきとる」ように安らかであった、電話口で父はそう言った。

 本を閉じて通りに目をやると、辺りはすっかり暗くなっている。ずいぶんと日が短くなった。時計を見ると、まだ7時半にもならない。夕闇に、僕は通りに停めた自分のバイクを一瞬見失った。動揺し腰を浮かしかけた弾みで椅子がガタンと大きく音を立てる。これじゃあのときと反対だ。僕は椅子に深く座りなおすと、まいごがいるような気がして右膝をゆっくりと何度かさすった。