ー「あげる」は敬語だから自分にはつかえない
あげる(上げる・尊敬語) ↔ くれる(下・蔑語)
くらべるのは「もらうとくれる」じゃなくて、「あげるとくれる」
「『くれます』は感謝のキモチがつよいです」。
「くれる」のとらえかたとして「恩恵」ということばがもちいられることがあって、このことが本質を見えにくくしています。
感謝のキモチが強いなどとして、「くれます」にハートマークをとばしている先生がいます。「くれる」と「もらう」をくらべて、「『くれる』のほうが、『もらう』より感謝のキモチが強い」というわけですが、そんなばかな。
「くれる」と「もらう」とは、場面や言いたいことによってつかいわけるのであって、謝意の多寡でつかいわけることはありません。感謝のキモチの量にによって、言い分けている人なんていませんよねえ。
そもそも「くれる」と「もらう」を比べたのが大間違いです。
「くれる」と比べなきゃいけないのは、「もらう」じゃなくて「あげる」のほうです。
なぜ「私にあげます」はだめなのか、なぜそこだけ「くれます」なのか。
その理由はとても簡単です。
日本語の「あげる」は尊敬語です。「『あげる』は敬語だから自分にはつかえない」、ただそれだけのことです。
「あげる」は「上げる」ー自分に敬語はつかえない!
- 「あげます」は上(→相手)へ、「くれます」は下(→自分)への一方通行
下から上への移動をしめす「あげる」は尊敬語なので、自分が対象(受けとる側)である場合はつかいにくい。 だからその場合、上から下への移動をしめす、「くれる」をつかう。
「くれる」はへりくだる謙譲表現です。」「くれる」・「くださる」・「ください」・「くれ」・「くれろ」など、上から下への移動をしめす「下る(くだる)」・「下す(くだす)」を連想させます。「あげる」と対照的ですね。
韓国語に「くれる」はない
韓国語の「あげる」にあたる語は、敬語ではない。 日本語の「あげる」は「斜め上」への一方通行であるが、韓国語の「あげる」は「真横」で、相互にやりとりできる。 自分が対象(受けとる場合)であっても、つかうことができるので「くれる」に該当する語はない。
日本語の「あげる」の特性
現代の日本語では「妹にあげる」だの「えさをあげる」だので、「あげる」の持つ敬意は薄れたが、 その「敬意」は「善意(好意)」に変質し、のこった。だから日本語では「してあげる」の「善意」の恩着せがましさが嫌われる。外国人話者には注意が必要だろう。 韓国語の「してあげる」に相当する表現に恩着せがましさはなく、日本語で言えば「いたします」に該当する表現として多用される。
大辞林 第三版 (三省堂)http://www.excite.co.jp/dictionary/japanese/
「あげる」で検索してみるとーー「より高いところ」が自分ていうのはまずいわけです
上げるも揚げるも挙げるもない。日本語の「あげる」は「あげる」です
「あげる」は敬語、「くれる」は蔑語
敬語の対義語として「蔑語」という語をつかうとわかりやすいかもしれない。
敬語の「あげる」に対して、「くれる」は蔑語というわけで、「こうしてくれる」や「どうしてくれよう」なんていうのは、「くれる」の、「蔑語」としての特性をいかした特徴的なつかいかただろう。
なぜ「私にあげます」ではだめなのか、なぜそこだけ「くれます」なのか
前述した通り、日本語の「あげる」は敬語だからです。
「あげる」とは対照的に「くれる」が「蔑語」であることは、ものをあげたりもらったりする行為に、つい上下関係をみてしまう日本人の感情のあらわれとしてわかりやすい現象かもしれません。
LINK 遠州弁ああたらこうたら くれる
「猫に餌くれた?」(猫に餌あげた?)当たり前に使っているし、共通語だと思っている。ただし共通語の「くれてやる」といったような見下ろすニュアンスではなく親しみの心情がこもった表現で使われるのでそういう意味では方言と呼べるかもしれない…
LINK NHK放送文化研究所— 最近気になる放送用語「差し上げます」?
(メディア研究部・放送用語 塩田雄大)
…「差し上げる」は、「それによって聞き手に何らかのメリットが生じることを、話し手が期待している」ような状況で使われるのが典型的です。「キーホルダー」の例で言えば、それを受け取ることは聞き手(=キーホルダーをもらう人)のためになるはずだ、という話し手の前提があります…
LINK NHK放送文化研究所—最近気になる放送用語「~してあげる」?
(メディア研究部・放送用語 塩田雄大)
…では、「お肉にたれをよくもみこんであげますの場合に〔恩恵〕を受けるのは、だれでしょうか…
現代の日本語で「あげる」は、それが押し売りであろうが「善意(好意)」なのだから、おいしくなるようによくもみこむのは、よろこんでもらえるように人にやさしくするのと、何ら変わらない、心理であり行動である。