マラケシュで知り合った少年は、アラビア語のほかにフランス語とスペイン語を理解した。僕が英語しかわからないことを知ると、彼は少し考えて思い出すようにイエスと言った。彼が知ってる英語はそれだけだった。
彼は僕と握手するともう一度イエスと言った。そして通りに止めてあるトラックの荷台を指差して片目をつぶり、イエスと言った。乗れという意味だ。僕が荷台に片脚をかけそこねてずり落ちると心配そうにまたイエスと言うので、僕もイエスと応えた。ふたりはとてもポジティブな関係だったとおもう。
少年はガーゼのようなものに接着剤を染み込ませて持ち歩いていた。ガーゼを口に当てると深く呼吸する。目がとろんとしているわけがわかった。
少年の職業はダンサーで、手ごろな長い棒を手にとると、それを槍に見たてて踊る。狩りの踊りなのだろう。ステップは徐々に激しさを増した。彼が踊ると道ゆく人が足を止め、いろいろなものをくれる。お金だけではない。その日は生卵をもらった。ポケットに入れた生卵が割れてズボンが濡れると、彼は僕の顔を見てまたイエスと言った。
ある日、ふたりで並んで歩いていると、向こうから歩いてきた女性が少年の前で立ち止まった。少年は表情を変えることもなく、女性の手をとると軽く膝を折って手の甲に口づけをした。女性が立ち去ると、少年は「お母さん」と言った。ひとり空につぶやいたようにも見えたが、アラビア語ではなかったので、僕に伝えようとしたのだとおもう。
その夜、僕は接着剤をつかってみた。ハンカチに接着剤を染み込ませ、口に当てて深く息を吸い込む。仰向けにベッドに横になった。電気を消しても、この部屋は真っ暗にはならなかった。中庭の明かりが窓から差し込んで、天井のシミをうっすらと照らす。やがてそのシミが大きくなったり小さくなったりしながら、ゆっくりと動き始めた。それが接着剤のせいかどうか、僕にはよくわからなかった。