くまのプーさん

プーさん、好き?

遅れて教室に入ってきた女子生徒が、新しい携帯ストラップをつけてきたので、何気なく訊いただけだ。遅れてきた生徒には、声をかけると言う基本を守ったにすぎない。
その質問に周囲の生徒たちは一斉に反応した。

「日本ではプーさんと言いますか」
「ハイ」

「プー… “さん” ?」
「ハイ、くまのプーさん…」

「ミッキー?」
「マウス!」

「ドナルド?」
「ダック!」

「くまの?」
「プーさん!」

ざわつく教室で『森の熊さん』と『象さん』の歌を一節ずつ歌った。
そしたら「キティちゃん」の話になって、迷子の迷子の子猫ちゃんで、にゃんにゃんにゃにゃんなんてふざけてたら、その日の授業は終わってしまった。

教員室へ戻ると、キム先生が電話で話していた。大きな声で身振り手振りを交えている。話の内容からすると、相手はキム先生のクラスの受講生のようだ。韓国の日本語学校では韓国人教員が基礎を担当するのが一般的で、この学校もそうだった。我々ネイティブスピーカーのクラスとはちがい、授業は韓国語で進められる。当然学習者とのコミュニケーションも韓国語だ。

「『スジさん』、いまやめたらもったいないじゃない。せっかくここまでがんばってきたのに。今月がんばれば来月から日本人の先生のクラスです。『スジさん』はセンスがあるから、どんどん上手になるって! クラスのみんなも『スジさん』がいないと、さびしいって言っているし。だいじょぶ、だいじょぶ。休んだところは私が補習するので……」

電話を切って回転椅子をぐるりと回しこちらを向いたキム先生は、ふうっと大きく息をついた。
おつかれさまですと私が声をかけると笑顔で肩をすくめる。

「『さん』なんですね」
「え?」
「『スジさん』って。ぜんぶ韓国語で話してるのにそこだけ」

常に生徒を「さん」づけで呼ぶ韓国人の先生は、キム先生だけではない。初級の学習者相手に少しでも日本語の雰囲気を味わってもらおうというアイデアだろうと、これまではそれぐらいに思い、理由を尋ねたことはなかったが、きょうの授業のこともあって気になった。

「日本語の雰囲気…そうですね。それもありますけど。でもそれより、『さん』が…ちょうどいいんですよ」
「ちょうどいい?」

「さん」はちょうどいい。

キム先生がつづける。
「韓国語にはちょうどいいの…、敬称っていうんですか、敬称の、ちょうどいいのがない」
「氏は…?」
「かたくてだめ。教室の空気もかたくなっちゃいます。距離感っていうか。ちょっとよそよそしすぎるし…、日本語の氏よりは使えますけど」
「韓国語にはもうちょっとくだけたのないんですか」
「ありますけど、くだけすぎちゃうんですよ。日本語だと『ちゃん』ぐらいかな」
「えーでも、それじゃ韓国人が話すときはどうしてるんですか」
「困ります。だから親しくなるまでは、なるべく名前を呼ばないようにする。年上ならお兄さんとかお姉さんとか呼ぶかな…、職場だと役職で呼べばいいから、簡単なんですけど…。あ、ここはみんな先生だからカンタンですね、あはは」

たしかにみんな “センセー” だ。そういうことになっている。
なんだか楽しくなって私も笑った。