おとうさん

 物心つくと「お父さん、お母さん」という呼びかたのもつ、よそよそしさのようなものに違和感を感じ、そう呼ぶのを避けるようになった。どうしても呼ばなければならずやむを得ず口にするが、違和感は年々増すばかりで、まるで安っぽいお芝居の登場人物になったよう。
違和感というのは、なんというかまあ感情(キモチ)がのらないのだ、「お父さん、お母さん」という呼びかたには。
こどものころはそうじゃなかった。上野動物園で迷子になって泣き叫んだ「おとうさん、おかあさん」は魂の叫びだった。
 違和感は年齢をかさねるにつれて大きくなった。いきがって「おやじ」「おふくろ」なんてつかい始めるともうだめだ。キモチの乗る呼びかたをすることで「お父さん、お母さん」の持つよそよそしさのようなものがきわだつ。その違和感はどうやっても拭いきれなかった。
 日本語には「おっとう・おっかあ」、「おとっつぁん・おかっつぁん」という呼びかたが、きちんとあった。それがある日「きょうからは『お父さん、お母さん』と呼びましょう」ということになった。「お父さん、お母さん」にキモチがのらないのは、それが人工的につくられたことばだからだろう。
ある種の業界での挨拶が昼夜を問わず、「おはようございます」で通されることにも、かかわりがあるんじゃないかとおもってる。
 「おはよう」は、「こんにちは・こんばんは」とはちがう。母語として日本語を話す者には分かる。はっきりと意識できていなくてもなんとなく感じている。だから家族に「こんにちは」などと挨拶する人はいない。形式的な挨拶は身内にはなじまない。だからほら「おはよう」は身内でもいけるじゃないか。

 僕は夜の授業のはじまりに「こんばんは」と言わない。理由は「なんか変」だから。何度か言ってみたこともあるし、相手がつかえば「こんばんは」と返すが、違和感はきえない。
 「こんにちは・こんばんは」は人工的につくられたことばだ。一般大衆が「今日は」「今晩は」などという漢語由来の挨拶をかわしていたはずがない。
 挨拶を「つくる」なら、せめて(「おはよう」のように)「ございます」をつけられる仕様にしておけばよかったのだ。そうしなかったからずいぶんすわりのわるいことばになった。
 これからなにかをはじめようとあつまった人間同士がかわす挨拶としては、ずいぶんと間がぬけている。だからある種の業界の挨拶として昼夜を問わず「おはよう(ございます)」がつかわれるのは、ごく自然なことのようにおもう。
 「こんにちは」と「こんばんは」に「ございます」がつけられないのは、ある意味で致命的であった。運動部の高校生が昼下がり駅に集合した仲間や先輩相手に「ちーす」なんてやってるのは、あれはつまり「こんにちはです」か「こんにちはでございます」と言ってるわけで、無意識にせよ、なにか足りないことに気づいている。