「形(けい)」という手法

日本語教育で使われる「て形・た形・ない形・辞書形・可能形…普通形…」など「形(けい)」について

◆ 形という手法
かつて日本語教育の業界は、未然・連用・終止・連体…の学校文法との訣別を誓い、て形・た形・ない形…という語を採用しました。
学校文法へのネガティブな評価は、日本語の先生方の間でも当然のように共有されています。関連書籍における扱いや養成講座の先生方の話しぶりも、学校文法にはひどく冷淡で、否定的な色彩が強い。
養成講座の先生は言います。日本語教育では学校文法の未然・連用…なんて使わない。未然・連用…だけではありません。中高の英語の授業ではおなじみの現在・過去・否定といった語も、日本語教育では使わないという。
それでは日本語教育の文法とは?
プロはいったいどうやって教えるのか。
て形・た形・ない形…といった耳新しい語を紹介する養成講座の先生の得意気な顔に教室の期待はにわかに たかまります。しかし養成講座の先生がその期待に応えることはありません。
日本語教育には、独自に確立された、共通の文法などというものは、ないのです。
て形・た形・ない形・辞書形…といった語は、特定の文法体系に根差したものではありません。ただの呼び名です。そこにあるのは文法ではなく、手法。日本語の教えかたです。

日本ではじめて外国人に日本語を教えることになった、日本語の先生方が最初にやったことは、それまで名前のなかった、動詞のかたちに ひとつひとつ名前をつけていくことでした。
食べて ― て形。 食べた ― た形。 食べない ― ない形。 ……目についたかたちにつぎつぎと名前をつけていった。
聞けばその姿が連想できる、見たまんまの名前です。
それは、意義や機能を説明しない、斬新な命名でした。
どうすれば文法色(むずかしそうな印象)が消えるか、どうすれば簡単そうに見えるか、先生がたはただそれだけを考えた。
「○○態」や「○○体」などを区別せずに思い切ってぜんぶのかたちを「○○形」とやったのは、そのためです。計算づくで徹底的な単純化をはかったのです。学習者に無駄な負担をかけないように。学校文法にかわる新しい理論をうちだす気などさらさらなかった。

◆ からっぽの形
「形」の裏には、巧妙かつ整然としたシステム(文法)があります。ひとくくりにされる、それぞれのかたちの成り立ちと性質をつかんでおかないと 自分がいま何を教えているのか、わからない。「形という手法」を使いこなすには教える側がそういうことを理解しておかなければなりません。

教える側が特定の教えかたに縛られることもなくなったことは、「形」の、もうひとつの歴史的意義です。「形」を使って(場合によっては、変えたり、使わなかったりして)、試行錯誤しながら、工夫を重ねるうちに学校なり、教員なりの教えかたや考えかたが生まれてきます。だから用語や用語の定義やあつかいかたには学校・課程・教科書や教員によってばらつきがある。
学校や教員によっては「形」のほかの用語を、あえてもちいることもあるようです。
同じ学校や教員がコースや学習者の事情に応じて、使用する用語を変える場合もあります。教員と学習者の間で共有される語は記号のようなもので、お互いに通じればそれでいい。べつに「形」じゃなくたっていい。用語をまったく用いないという教えかたもあります。
このように自由な発想で工夫できるのは、「形」がなにも主張しないから。文法を主張しない、中立で無色透明なところが「形」のすごさです。
「形」は文法じゃない。用語とは文字通り道具です。

所属の異なる先生と日本語の話をするときはこの「形」が重宝する。動詞のカタチを指し示すのに “いわゆる” 「形」という言いかたは、考えかたや教えかたの異なる人々が集まった席で共有するには、都合がいい。「形」は文法を主張してないただの道具なので、どんな考えの人が使ったって、自らの主張を曲げたことにはなりません。
教室で学習者と共有するために考え出された「形」は、教室の外で教員間の共通言語としても共有されています。