です」が絶大な支持を受けたのは、その「軽み」だったんじゃないかと思う。「です」のおかげで、みんながおなじことばをつかって対等に話すことができるようになった。
という話は「形容詞+です」のはじまりという記事に書いた。ここでは「です」という部品の誕生したころのことを書こうと思う。
「です」ができるまえには、「ます」というのがあって、これは動詞にくっつけてつかう部品だった。
やがて、その「ます」が動詞の「あり」といっしょになって「(名詞)であります」という言いかたができた。それがみじかくつまったのが「です」で、これは日本語の、新しい部品だった。
「です」は、最初はまじめに活用していた。こんな風にだ。
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- 日本人|です
- 日本人|でした
- 日本人|ではありません
- 日本人|ではありませんでした
「です」の本分は名詞にくっつくことであった。その「です」が、形容詞にくっつこうとしたところから全ては始まった。
「です」が形容詞にくっつこうとしたのは、よくわかる。
当時形容詞には「ます」をつかった「さむうございます」という言い方があった。
名詞(日本人です・学生です等)や形容動詞(ひまです・しずかです等)とともに、属性を示す仕事をやすやすとこなしていた「です」が、「さむうございます」を見て、「これは俺の仕事だ、ちょろいちょろい」とおもったとしても無理もない。
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- さむうございます
- さむうございました
- さむくございません
- さむくございませんでした
ところがそれはうまくいかなかった。
まずはこれ。形容詞を名詞扱いして正面からぶつかった結果だ。
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- さむい |です
さむい|でしたさむい|ではありません(さむくありません)さむい|ではありませんでした(さむくありませんでした)
この通りなんとか格好になったのは「さむいです」だけで、ほかは全滅である。名詞や形容動詞のようなわけにはいかなかった。「です」と形容詞との相性は、思いのほかよくなかったのだ。「さむいです」だって、これ、いまでこそ、違和感ないが、当時は相当に変な日本語であったはずです。
カッコ内の「さむくありません」と「さむくありませんでした」は、見ての通り、「ます」をつかった表現であり、「です」の仕事ではない。「ござる」が「ある」になっただけだ。
形容詞を名詞扱いすることに失敗した「です」は、こんどは外側からくっつこうとする。
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- さむい |です
さむ|かった |でしたさむく|ありません|です- さむく|ありません|でした
かろうじて「さむくありませんでした」が成立しているが、これは名詞文で既に成立している「ありませんでした」の流用だ。
全体としてはぐだぐだで、これもうまくいかなかった。
これを見た、周囲の大人たちは指をさして笑った。若気の至り、これで「です」もあきらめるだろうと、皆たかをくくった。
が、しかしそれでも「です」はあきらめなかった。あきらめるどころか、すぐにすごいことをはじめる。
失敗が続き「です」はくさっていた。慣れないアルコールが入ったことも手伝って、ちょっとヤケもおこしていた。
「でした」とか「ではありません」とか「ありませんでした」とか、マジもうウザいなあ…。こんなことくらいならもういっそのことおれひとりで……えっ? ん?
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- さむい |です
- さむ|かった |です
- さむ|くない |です
- さむ|くなかった|です
なんと「です」は自ら活用するのをやめてしまったのだ。否定だとか、過去だとか、そんな面倒くさいことはひと(ここでは形容詞)にまかせて、自らはなにもしない。
「です」は、「でした」とか「ではありません」とか、昔の仲間と袂をわかった。バンドのリーダーがバンドを脱退してソロ活動をはじめたようなものだ。
さらに「です」は、自身を産んだ「ます」にも別れを告げた。「ます」は「です」の育ての親であり、いわば自らの分身である。育ててくれたプロダクションから独立するのには相当な覚悟がいったことだろう。
「です」はこうして生まれ変わった。
このとき「です」が相性のよくない動詞をあきらめ、形容詞の「ない」に協力を仰いだことも功を奏した。新しい、日本語の否定「ない」の登場は、「です」の躍進を大いに助ける。両者の出会い(「ないです」)は、新しい日本語の未来にとって大きい出来事であった。
新しい、活用しない「です」は、日本語の話しかたを変えた。
新しい「です」は、なんにでもくっつくことができ、既に完成した日本語にも、その外からカチッとくっついてみせる。
「いやいやいや、誠にすみませんです」。公園のベンチで携帯を片手に、見えない相手に頭を下げるサラリーマンの日本語を、誤りであると責める人はいないだろう。
着脱容易な新しい日本語の部品「です」の、そのポテンシャルに周囲はどよめいた。なによりいちばんおどろいたのは、「です」自身だったかもしれない。
こうなったら「です」はもう怖いものなしだ。名詞にもくっついた。「ない」の協力を仰いでいるのも形容詞にくっついたのとおなじやりくちだ。
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- 日本人| |です
日本人|だった |です←すっかり使う人が多くなった- 日本人|じゃない |です
- 日本人|じゃなかった |です
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当初苦戦した「だったです」も最近ではよく使われるようになった。
そしてさらに、動詞の否定である、「たべない・たべなかった」にもくっついた。
しかしこれは実際には、動詞にくっついたというよりも、「ない」という、「新しい、日本語の否定の登場」にともなって起きた現象とするべきである。「たべない」は「ない」をともない成立した時点で既に形容詞化しており、「動詞に接続した」とは言えない。
おそらく「形容詞+です」の成立とほぼ同時に実現したのではないか。
そうなると動詞の本丸はやはり「たべる」と「たべた」であろう。
「たべるです」、「たべたです」。どうだろう。さすがの「です」もこちらには若干腰が引けているようにも見える。
しかしどうだろう。たしかにタラちゃんの「食べるデス」や「食べたデス」を聞いていると、道まだ半ばという気もするが、体育会系学生が用いる「食べるっス」や「食べたっス」はどうだろう。こちらはおおいに可能性が感じられるではないか。
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たべる |です←こいつが本丸!たべた |です←こいつが本丸- たべない |です
- たべなかった|です
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いまある固定観念に縛られてはならない。
ほら、皆が嗤った「ひまだったです」だって、使われるようになったでしょう。
みんな、こういう、軽快に文末で文をキメることのできるパーツがほしかったのだ。
もしかしたらそれは膠着語が洗練されていく中での必然であるのかもしれない。「です」の誕生が必然だとすれば、すべては最初から決まっていたことのようにも思えてくる。
この三十年間の日本語の話しかたのうつりかわりをみていると、「です」が、自らの育ての親であり分身でもある「ます」に引導をわたすときが近づいているようである。
日本語が、「ます」の時代から「です」の時代へと、さらに大変換を遂げることは、間違いのない規定路線である。
若者たちがいっせいに「たべるです」、「たべたです」と言い出す日は、そんなに遠くないだろう。